ふと浮かんだ記憶の断片
ふと浮かぶ言葉のひとひら。
「あ、これ書こう」と思った瞬間、確かにそこにある。
テーマも、言いたいことも、輪郭もある。
でも、メモを開いたら、指を動かす前に、
その言葉はもう消えてゆく。
掴もうとした瞬間、
するりと時の隙間をすり抜けていく。
はじめのうち、私はそれを「失敗」だと思っていた。
記録できなかった自分のミスだと。
でも、ふと気づいた。
言葉は、流れ消えゆくものなのだ。
諸行無常とは言葉のことでもあるのだろう。
この世に存在するものは、
すべて移り変わり、とどまるものはない。
花が散るのも。
潮が引くのも。
そして、心に浮かんだ言葉が消えていくのも。
例外ではない。
むしろ、言葉というものは、
ことさら「無常」に近い存在かもしれない。
思考という、形のないものが、
一瞬だけ言語という形をまとって浮かび上がる。
それは、波のようなものだ。
海面に現れ、その形のまま存在し続けることはない。
だとすれば。
「消えた」のではなく、「もともとそういうものだった」のだ。
忘却という「力」
哲学者のニーチェは、忘却を「弱さ」だと考えなかった。
むしろ逆だった。
忘れるという能力こそが、生きるための積極的な力だ、と。
もし人間が何もかもを覚えていたら、
意識は過去でいっぱいになり、
新しいものが入ってくる余地がなくなる。
忘却とは、空白をつくることだ。
次の思考のための、余白を。
次の言葉のための、隙間を。
だとすれば、時の隙間に落ちていった言葉たちは、
私の意識が意図せず手放した何かではなく、
次の言葉が来るために、必要だった空白、だったのだ。
それでも、ちょっと悔しい
結構いいテーマだったのに、と思う気持ちがある。
自分を納得させようとしている自分も、
どこかで悔しがっている自分も、両方、本当だ。
この「自分勝手なジレンマ」は、消えない。
歩きながら思いついて、座った途端に消えてゆく。
メモしようとした瞬間、その言葉がもう消えている。
移動という時間。姿勢を変えるという瞬間。
時という隙間に、言葉は落ちていく。
ひらり、落ち葉のように。
どこ?どこ?
帽子や鍵をいつも探している坊やの歌がある。
チャラン・ポ・ランタンの「どこ?どこ?」という曲だ。
どこ どこ どこ どこ
ここ? そこ? いやどこ?!
どこに置いたんだっけ?
なんで無いんだ ああ
これ、完全に私じゃないか、と苦笑いしてしまう。
きっと共感する人、多いんじゃないかしら。
誰もが何かを落とし、誰もが何かを探している。
大事だと思っていたのに、手を離してしまった何か。
あるはずなのに、どこにも見つからない、その感覚。
それは言葉だけじゃない。
記憶も、感情も、思い出も。
そうして私たちは、いつも何かを探しながら生きている。
流れるもの、留まるもの
無常という概念は、しかしながら、虚無ではない。
消えていくことと、存在したことは、矛盾しない。
浮かんでは消えて、また浮かぶ。
それが言葉というものの、本来の姿なのかもしれない。
完成を求めるのではなく。
記録を求めるのではなく。
ただ、言葉が浮かぶ、という現象そのものを、生きること。
言葉は、流れていく意識の中で、一瞬だけ光る。
掴もうとするから逃げてゆく。
失うことを思うから、悔しくもなる。
もしもそれを、浮かんでは消えていく、流れるもの、留まるもの、
その繰り返しを、いのちのリズムとして受け入れてみてはどうだろうか。
次の言葉は、もうすぐそこにやって来る。
消えた言葉は、もう一度浮かぶかもしれない。
別の姿で、別の文脈で。
あるいは、違う誰かの心に住みつくかもしれない。
言葉というものは、そういう、いのちの流れの中に在るものだから。
諸行無常、でも、無駄ではない。
消えていくものは、どこかへ行くのだから。
---
p.s. 「どこ?どこ?」の歌の最後のフレーズは「あ、あった」です。
そう、失くしたと思ってても、見つかるもんなんですね。




惹かれて読んでいるうちに、浮かんできては消える思考の言葉の儚さと、小説「モモ」の刹那に咲く時間の花のイメージが重なりました。いのちの流れの中に在るものだから…と書いていらっしゃる通り、内側の「言葉」と「時間」は案外近しいものなのかも知れませんね。
メモを開いた瞬間に消える言葉、かなり身に覚えがあります。
悔しいけれど、たぶん言葉にも逃げ足の速い個体がいるんですよね。
消えたものを失敗ではなく、次の言葉のための空白として見るところが素敵でした。最後の「あ、あった」まで含めて、余韻が残りました。