眠くなった。それが、瞑想の始まりだった。
Sunoで作った楽曲「The Deep Divine」をBGMにお読みくださいね♪
精神世界を学び始めたとき、瞑想に取り組み始めました。
目を閉じて、ただ座る。それだけのことです。
しかし、取り組んですぐに、、、眠くなった。
ものの数分で、意識がふわっと遠くなる。
これが瞑想なのか、ただ寝ているだけなのか、区別がつきませんでした。
「こんなのでいいんだろうか?」と疑問を感じたまま、それでも続けました。
■ 瞑想って、何をするの?
正直に言えば、最初は全然、瞑想がどういう状態になるものかはわかりませんでした。
「無」になればいいのか。
何も考えなければいいのか。
心を空っぽにすればいいのか。
ところが、それがとても難しくて、座るたびに頭の中は賑やかでした。
明日の予定、昨日言えなかった一言、あの人のこと、
買い忘れたもの、いつか解決しなきゃいけないこと、、、
思ったより、私の頭の中は忙しかったのです。
こんなに次から次へと考えが湧いてくるのか、と、むしろ驚いた程です。
■ 「何も考えない」は、目的じゃなかった
ある日、教わりました。
瞑想の目的は、思考をなくすことではない。
思考が湧いてきたとき、それに気づくことだ、と。
「あ、また考えてた」それに気づけるとしたら、それが瞑想が進んだ証です。
思考が来る。気づく。また思考が来る。また気づく。
それを繰り返す。
ただ、「気づく」練習をしているのです。
眠くなっても、雑念だらけでも、
「あぁ、眠くなってきたな」と感じていることに気づく。
「雑念だらけだな」と気づく。
■ 「見ている者」に、初めて気がついた
続けていくうちに、ある感覚が生まれました。
思考がやって来る。
その考えている自分を、どこかで「見ている」自分がいるのです。
思考している私と、思考している自分を見ている別の自分。
その二つが、確かに違うものとして感じられた。
それは静かな驚きでした。
「あ、私って、考えていると思っていたけど、考えている自分を見てもいたんだ」と。
座って目を閉じているとき、初めて身体感覚でわかった気がしました。
■ 「見ている者」は、どこにいるのか
でも、その「見ている者」はどこにいるのだろう、とまた疑問が湧いてきます。
頭の中? 胸のあたり? どこか遠く?
うまく説明できません。
みている者がいる場所があるというより、「それがある」という感覚に近いんです。
嵐の中心には、静かな場所があると言われています。
台風の中心の目に当たる部分には、風が吹いていない。
瞑想で座っているとき、私の思考や感情は確かに、時に嵐のように騒いでいます。
でもそれを見ている部分は、とても静かです。
嵐の中にいながら、静かな中心がある、そんな感じです。
ただ、そこが「本当の私」に一番近い気がしたのです。
■ 続けることで、わかってきたこと
瞑想は、劇的に何かを変えるものではありませんでした。
悩みがなくなるわけじゃない。
感情が来なくなるわけでもない。
怒りも、不安も、相変わらず生まれてきました。
でも、感情が生じたときに「あ、来たな」と気づくことができるようになってきたのです。
渦の中に飲み込まれる前に、一瞬、立ち止まれる。
その一瞬に気づけるようになってきた。
瞑想って何?と聞かれたら、今はこう答えます。
「見ている自分に、気づく練習」だと。
何かになるためではなく、何かをなくすためでもなく、
ただ、「見ている者がいる」ということを、繰り返し確かめる。
最初は眠くなるかもしれない。
雑念だらけかもしれない。
それでいいのです。私もそうだったから。
ただ、続けていくと、分かってくることがあります。
そこは、とても静寂で、時もなく、ただ満たされている領域です。
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【注釈】
本文で触れた「見ている者」という概念は、ヨーガ哲学では「ドラシュトゥ(Draṣṭā)」と呼ばれる。観照者、目撃者、とも訳される。パタンジャリの『ヨーガ・スートラ』第二章20節に「見る者は、純粋な見ることそのものである」と記されている。瞑想はその「見る者」へと意識を戻す実践ともいえる。





瞑想はまさに観察と気づきですよね!私もやってみてやっとわかりました。
またゆかりっくさんと語りたいテーマが増えてしまった…✨️
ゆかりっくさん、ステキな曲です✨
私も瞑想するので、ピッタリだと思います。
そして、瞑想は何よりも自分をゆっくり感じられる豊かな時間ですよね🥰