大人になってから、もうずいぶん経ちました。
年数だけを数えれば、かなりのベテランです。
けれど今でも、大人をするのはむずかしいと感じてしまうことが多々あるのですよね。
言わなくてもいいことを言い、言ったほうがいいことを飲み込む。
手を貸すべきときに迷い、見守るつもりが、つい口を出す。
昔は、歳を重ねれば、もっと落ち着いた、物分かりのいい大人になれると思っていましたよ。
大人っていうのは、何を引き受けて、何を手放せばいいのかも、自然とわかるようになるのだろう、と。
そして、おおらかな寛容の精神が自然と備わってくるものだろうと。
でも、どうやら「大人」というのは、そう簡単ではないようです。
あなたはどうですか?
さてさて、私たちは「いい大人」になれるのだろうか、疑問に思っているんです。
理想の大人、いい大人。あなたの周りにいらっしゃいますか?
この人!とすぐに眼に浮かぶ、あの人はいらっしゃるかしら?
いるとしたら、その人はあなたの理想のロールモデルになりえるでしょう。素晴らしい!
でも、なかなか、そういう人は思い浮かばないという人も多いのでは?
ならば、私はこう思うのです。
あえて「いい大人」を脱ぎ去ってもいいのだ、と。
勝手に背負っているもの
大人になると、背負うものが少しずつ増えていきますね。
仕事のこと。家族のこと。
頼まれたこと。頼まれてはいないけれど、つい手を出してしまうこと。
「私がやらなければ」
そう思って誰に頼まれたわけでもないのに、引き受けてきたもの、ありませんか?
責任を果たすことは、大切です。はい、大人ですからね。
困っている人に手を差し出せる人でいたいし、家族への責任も、できる限り果たしてきたつもり、ではないですか?
ただし、責任感だけで走り続けていると、息切れしてしまいますよね。
最初は「してあげたい」と思っていたはずなのに、相手から感謝されることがないと「どうして私ばかり」に変わっていく。。。
頼まれてもいないのに引き受けて、あとから相手に責任の請求書を相手に出してしまいそうになる。
「あなたのために、こんなにしているのに」と。
私にも、思い当たることがあるんです。
例えば、親の介護をしていた時のことです。
「私が診なければ」と、責任感からそう思っていたんです。
「私がやらなければ」と、ね。
でもね、よくよく考えてみると、親も、兄弟も、私に無理強いしたわけではなかったんです。
「私がやらなければ」と勝手に思っていたのは他ならぬ私自身でした。
私が引き受けたほうが早いから、私がやったほうがいいに決まってるんだから、私は分かっているのだから、、、と勝手に引き受けてしまっていたんですよね。
誤解のないように言っておきたいのですが、決して介護を後悔しているわけではないのですよ。
ここで言いたいのは、「勝手に引き受けたこと」についてです。
さん、あなたにも思い当たることはないですか?「私がやらなければ」と勝手に思ってしまったことはないですか?
そんな時、ほんの少し立ち止まってみて、こう考えてみてもいいんです。
「これは本当に、私が全部引き受けることなのだろうか」と。
手を貸さないという愛情
困っている人を助けるのは、優しさです。
手を差し出せば、相手は少し楽になり、自分も「役に立てた」と安心できます。
けれど、何でもかんでも先回りしていたら、相手が自分で考え、自分で決める機会を奪ってしまいますよね。
これは子育てや、仕事の後輩育成などでも同じです。
そう考えると、あえて手を貸さないことも愛情なのですよね。
その人が、自分で歩けると信じること。
転んでも、自分で立ち上がれると信じること。
見守るとは、少し離れたところにいても、気づける距離を保つこと。
頼まれたら手を貸す。
話したくなったら話を聞く。
でも、ここが肝心なのですが、相手の人生のハンドルまでは握らない。
言葉にすれば簡単だけれど、これがなかなかのもので、コントロール上手になるまで辛抱が肝心です。
よくおばあちゃんが言っていました。
「いい塩梅(あんばい)の匙加減」
この、いい塩梅を何度でも探ってゆくことなんでしょうね。
何度か試している内に、ある時、いい塩梅の距離感が見えてくる時がくるのでしょう。
重い荷物の背負い方を変えてみる
どうしても手放せない責任もあります。
けれど、責任から降りられないとしても、今の背負い方を変えることはできるのかもしれません。
一人で持っていたものを、誰かと持つ。
できないことは、できないと言う。
少し距離を置いてみる。
必要なら、助けを借りる。
自分が潰れるまで頑張って、最後には相手まで嫌いになってしまう前に、荷物を一旦、置いてみるんです。
自分が潰れてしまわないためにも、自分が持てる重さを知ること。
持てないものは、乱暴に投げ出してしまうのではなく、誰かに手助けしてもらったり、いったん下に置いたりする。
そして少し楽になるといいんです。
それも、大人の「責任」という荷物の背負い方の一つなのだと思いますよ。
大人は、いつだって未完成
大人歴は長い。
それでも、相変わらず大人を迷っている。
正しい答えを選べる日はいつ来るのでしょうね。
もしかすると、それは最後まで続くのかもしれません。
成熟とは、迷わなくなることではないのかもしれません。
成熟とは、迷っても答えを導き出そうするプロセスなのでしょう。
近づきすぎたら、少し離れる。
離れすぎたと思ったら、また声をかける。
一人で持てなくなったら、助けを求める。
そうやって、自分と相手にとって心地よい距離を、そのつど探し直す。
相手を見捨てない。
でも、自分のことも見捨てない。
その間で迷い続けることも、大人であることの一部なのだと思います。
大人は、なかなか完成しません。
それなら、未完成なまま、最後まで歩いたっていいじゃない?
だって、未完成は美しい、と私は思うのですよ。
そして私は今日もまた、あまり上手ではないなりに、大人をしています。
さん、あなたはどうですか? 大人、うまくやってますか?



ゆかりっくさん、こんばんは🤗
仕事柄手を貸してしまうことが多いですね。ただ仕事なので=請求書が発生しています。
身近な人なら…後のことや本人のことを考えるとやってもらうは正しいですね。自由を手に入れるのと、助けてもらって不自由を得るか?天秤にかけて考えてほしい所ですが、病気だとその考えはしんどいですね。
まだまだ大人の階段はたくさん残っていると思います。でも自分のペースで登っていくようにしていきたいですね。
ゆかりっくさん、こんにちは😄手を貸さないという愛情、私も同じような記事を出そうと思っていました☺️奇遇ですね🍀大人という在り方に近づこうとすることは続けていきたいです☺️